11.22.08:16
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03.07.12:07
「依る」のではなく、「帰る」
「依る」のではなく、「帰る」
風の強い日だった。
差された花は、たぶん、アイツが置いて行ったものだろう。
1年に1回、必ずここに来るようにしている。
1年の経過を確かめるように、22歳から数えるように、今に頷くように。
近況報告をする。誰にも言えないこともある。ちょっと情けない自分もいる。今の自分はどうかな?なんて聞きながら、ダメだよなって笑いながら、最後は、「がんばるよ」って言葉で結ぶことにしている。いつもの問答だ。
1人で来たのは久しぶりだ。
でも、あのときとは意味が違う。
それぞれの時間が経つということは、それぞれの時間に彩られるということで、僕らの色はそろそろ、混ざり合う場所も余白もなくなってきている。
気づいたときは寂しかったけど、今となっては、それが誇らしくも思う。
既存のものにみんなが一斉に依るのではなく、1人1人が新たに築き上げたものに、片足を乗せている。だから今は、「依る」のではなく、「帰る」と呼べる。
遠くに、1組の老夫婦が、丁寧に水を流し、たくさんの花を添える姿が見えた。
きっと、毎年2人で来ているのだろう。
寄り添いながら、手を合わせる姿に、しばらく見とれてしまった。
不意に、ゴオッ!という突風が吹き、僕は身を守るように、背を向けて目を瞑った。
周りの木々達は、急角度で隣にもたれ掛かっている。
でも、空を見ると、意外に雲は流れていなかった。上空は風がないのだろうか。
老夫婦もまた、何事もなかったかのように、祈りを続けていた。
留まるように、ぴったりと寄り添い合うように。
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09.16.13:35
熱を持って、やろう。
9月14日(土)、会社時代の同期の結婚式がありました。
僕は二次会の幹事をやらせてもらったんですけど、参加者のめちゃくちゃ献身的な協力で、なんとか無事務め上げることができました。みなさん、本当にありがとうございました!!
2人のお友達とあって、本当にみんな良い人で、おそらくかなり司会の僕に気を遣ってくださったのではないでしょうか。新郎も見せ場満載、ツッコミどころ満載の会でした!!
失うことなく、年をとっていけるだろうか。
そんな不安を、少しは拭えた気がする。
今回の幹事を務めさせてもらうにあたって、1つ、チャレンジさせてもらったことがありました。
それは、企画イベントをビンゴなどのような「受動型」のものではなく、参加者側から働きかける「能動型」にするということ。
もちろん、どの企画でも心がけていることではあるけど、結婚式二次会のような、育った環境も文化もバラバラな人たちが初対面で集う場だと、それを実現するには、ある程度バーを下げてみんなが片足で飛べるような、イージーなものになってしまうことが多い。
どんなに面白い企画を思いついても、100人弱に密なコミュニケーションを求めるには、越えなければならない壁が多すぎる。それはテーマであり、時間であり、最適なグループ人数やグルーピングであり、適度な難易度の出題であり、空気感の創出であり、何よりも「スタッフ力」だと、僕は思う。
僕が言う、「スタッフ力」とは、同じ景色を見れる眼と、それを実現するにあたって、具体的な課題を探り、その解決を、熱量を持ってやれる力のことだ。
今回、幹事パートナーとして、同じ会社時代の同期を指名させてもらった。
組織から離れて、一度、彼と何かを一緒にやりたいと思っていたので、今回の幹事はまたとない機会だった。忙しい中、深夜、スカイプでの打ち合わせになってしまうことが多かったのだけど、以前より増して力をつけた彼との話し合いは、僕にとって胸がワクワクする、高揚感のあるものとなった。
僕が、「こうしたい」というものに対して、その背景にある根拠を、1から10まで説明しなくても彼はわかってくれる。時に、異常にこだわる僕は、周囲から「そこまでこだわらなくても良くない?」と言われることが多いのだけど、彼は「なぜ、ここにこだわらなくてはいけないか」という、僕の背景まで理解してくれる。
それはまた、違和感を感じるポイントでも同様のことが言える。
順調に進んでいる話し合いの中、ふと黙ってしまうことがある。僕の中の誰かがこのまま進んではダメだと叫んでいて、その理由を探っているときだ。そのときも、彼は立ち止まる僕を許してくれるし、待ってくれる。
今回の企画は、3日前に固まった最終案を、前日の朝方までイメージした結果、急遽僕の独断で変更する形となった。どうしても成功イメージが浮かばなかったからだ。
最終的に捻り出した答えに、一応の自信を持っていたのだけれど、本番4時間前の彼との打ち合わせで、一カ所だけ彼からの課題抽出があり、それを解決することによって、最終案はさらにブラッシュアップされる形となった。
結果は、参加者の甚大なサポートのもと、なんとか無事成功と言えるものとなった。
もちろん、100点じゃないし、僕らが反省する点はたくさんある。けれど、それも明確だ。それくらいの見通しと、振り切りを持ってチャレンジできた。
満身創痍の帰り道、「今日はありがとう!」と手を振る新郎新婦を見て、やっと今日が終わったと思った。やってよかったと思えるように、誰も後悔なんかしないように、そのためだけに、一生懸命やろうって思っているのだと思う。それが子どものイベントでも、結婚式の二次会でも、仕事でも、恋愛でも、あのときも今も、変わることはない。
熱だ。
熱を持ってやろう。
失うことなく、年をとっていけるだろうか。
そんな不安を、少しは拭えた気がする。
05.08.16:28
黄昏れチャーハン
GW終盤、仕事明けですぐに名古屋へ車を走らせた。小学校時代の悪友の結婚式のためだ。
「悪友」と呼ぶにはいくつか理由がある。
僕らのクラスは小学校5年生のときに「学級崩壊」をしたのだけれど、その中心にいたのが他でもない彼だった。背が高くて、腕っ節も強いものだから、しょっちゅう問題を引き起こしていた。その震源地に僕も含まれていたわけだけど、周りは僕を「頭脳犯」、彼を「実行犯」と呼んだ。僕らは共犯であり、その延長からか、今は「悪友」という言葉がしっくりくるような気がしている。
不良街道まっしぐらだと思われていた彼だったけど、小学校のとき、時折、授業中、「お経」を出して読んでいることがあった。ウケを狙っているのか、ふざけているのか、彼は「俺、将来、坊さんになる」と公言していた。誰一人そんなことは信じていなかったのだけれど、19年後の今、彼は坊さんとして、婿養子に入ることになった。
いつも1人だけ次元が違うのは、あの頃も今も変わっていない。
小学5年生のある放課後、夕暮れの教室で友だちとダベっていると、ベランダ付近の友だちが騒ぎ出した。
「やべぇ!校庭で竹川がやべぇことになってる!!」
何事かとベランダから身を乗り出して見ると、校庭のど真ん中で、隣のクラスの男子十数名が彼を取り囲んでいた。円の中心には、隣のクラスの大将と彼。一触即発の雰囲気だった。
僕はすぐさま校庭に下りていった。喧嘩を止めるためなんかじゃない。彼に加勢するためだ。僕らのクラスの男子はもうほとんど帰ってしまっている。勝ち目はない。けど、彼一人やられるのをただ見ているわけにもいかなかった。
現場についてみると、そこは昔の拳闘場さながらの雰囲気だった。リングの上の2人を観客達がはやし立てている。ギャラリーのほとんどは隣のクラスの男子。完全アウェーでの試合のようだった。
しかし彼は野次には一切動じず、じっと敵を睨みつけていた。隣のクラスの大将は、ふざけた顔をして、彼に近づいたり離れたりして挑発している。それを何度も繰り返す。本当にボクサーの試合みたいだった。僕は、彼にヤジを飛ばすギャラリーを睨みつけることしかできなかった。とても円の中には入っていけない。無力だった。どうする、どうする・・・。
何度目だったろうか。
敵の大将が、彼に近づいたり離れたりする動きを繰り返していた、その何度目か。
もう一度、彼の懐に入ったそのときだった。
バチーーーーーンと、打撃音が空に甲高く響き渡った。
同時に、周囲のヤジも一瞬で止まった。
気付くと、敵の大将が目を押さえながら、地面で悶え苦しんでいた。
彼の左ストレートが、敵の大将の左目を打ち抜いたのだ。
一瞬の沈黙のあと、今度は敵の大将の悲痛の叫び声が、放課後の校庭を覆った。
その痛み方は尋常ではなく、失明したのではないかと疑うほどだった。何にしろ、ただでは済まなかったはずだ。とんでもないことになってしまったと思った。
ゆっくりと、ランドセルを背負って帰ろうとする彼に、野次馬達は攻撃の手を緩めなかった。勝負はもう着いたのに、今度は「やり過ぎだ、やり過ぎだ」と彼を罵った。僕はなんだか悔しくて悔しくて、まるでボクサーのトレーナーみたいに、彼の肩を抱きながら、刺々しい野次馬のアーチをくぐっていった。
帰り道、何を喋るでもなく、彼の家まで送った。
僕の家は反対方向だったから、彼の家の前まで来ると、すぐに踵を返そうとしたのだけど、
「寄ってけよ」と彼が言うので、初めて彼の家に上がることになった。時刻は17時近くになっていたが、家には誰もいなかった。仕事だろうか。彼の部屋に案内されると、「腹減ったな、チャーハン食べるか?」と彼が言った。
その会話が小学生同士で交わされるものとは、あまりにもかけ離れていたものだから、僕は半ば、戸惑いとも頷きとも取れるようなリアクションしかできなかった。
しばらくすると、少し焦げ目のついた卵チャーハンがお皿に盛られてやってきた。恐る恐る食べてみる。
「うめー!!」
そうやって彼の方を見ると、やっと彼も笑った。
ランドセルを学校に置いたままだったので、僕の帰り道は遠かった。
彼は学校まで自転車で送ってやると言い、2人乗りで学校の正門まで向かった。
背の低い僕には、背の高い彼の背中しか見えなかった。言葉は特になかった。
景色はどうだったのだろう。
ただ思い出すのは、あの時の彼の作ってくれた卵チャーハンと、彼の広い背中だ。
それが黄昏れの色に染まっている光景が、いつまでも僕の中に残っている。
披露宴では、余興とビデオメッセージ編集を担当させてもらった関係で、彼の他の友だちの彼に対する印象を聞く事ができた。きっと、僕と同じように言葉にならない光景を受け取った人たちが何人もいるのだろう。
今さらだけど、「サンキュ」と呟く。
これからも、よろしく。
01.08.16:39
「自信」と「許容」
僕らの手が、少しは大きくなれた、ということだろうか。
まぁ、プラリと、集まる呼びかけも緩い感じで小学校時代からの友だちと新年会。。
高校生のとき、よくガストで朝方までみんなと一緒にいた。時間の使い方は、あのときと何も変わらないのに、あの頃の朝方の元気が、今の僕らにはもうない。
何を話したのだろう。おそらく、人と人が集まって話題の中心になっているのは、「人と人の価値観の違い」であることが多い。それが、高校時代、好きな人や友だちに偏っていたのが、同僚や上司、結婚相手などにすり替わったに過ぎない。それでも、10年以上経った今でも、僕らは相も変わらず悩み続ける。
30歳。
30歳の僕らにとって、20代前半の成長と20代後半の成長とは、一体どのようなものであっただろう。
結論から言えば、前者は「自信」であり、後者は「許容」だった。
「自信」とは、新たなものを吸収し、還元し、評価されることで得られるもので、刺激的で充足感を得やすいのが特徴だと思う。一方、「許容」とは、自信で余裕が生まれることで、自分のスペースに他人の価値観を受容することをいう。緩やかで穏やかな成長のため自分自身の成長として充足感を得にくい。しかし、確かにそれは「成長」と呼べる。
始発を待つ間、自動販売機であたたかいものを買う。
公園で夜を明かしたときも、確かこんなふうに飲みものを手で包んだ。
風景も、人も、空気も、時代も、何もかも変わってしまったのに、同じように包めるのは、
僕らの手が、少しは大きくなれた、ということだろうか。
12.05.21:17
「自然な家」
12月2日(日)、大学時代の同期が結婚した。
同じ英語サークルの中でも、彼女はスピーチセミナーで、僕はドラマセミナー。互いに情熱を傾けたものは違っていたけど、抱えていた問題も、覚悟を決めた時期も、辞めようか迷った時期も、そして吸っていた空気もきっと同じだった。それが「同期」というものだと思う。
スピーチセミナーの結婚ということで、2次会に集まった顔ぶれは、いつもとは少し違っていて、それはそれで新鮮で面白かった。セミナーごとに「色」というのがあって、僕らの代のスピーチセミナーは、どちらかというと穏やかで優しい奴らが多い。そのせいか、現役時代から僕はどこか、彼ら彼女たちに救われている気がする。
彼女が選んだ男性は、大学時代から今もハンドボールをやっていると聞いていたので、もっと体育会系の人かと思ったら、2次会の終わりの方では号泣、号泣で、進行が遅れるほど泣いていた(笑)言葉にならない言葉を一つずつゆっくり選び、それを「大丈夫、大丈夫」とゆっくり頷きながら待つ彼女。その数分間のやり取りの中に、2人の歴史がある。
積み重ねたものは、とても“自然”だ。
それは「家」に似ている。新築のときは、周りから浮いて見えるのに、時間が経つにつれて周りの景色にだんだん溶け込んでゆく。ときに嵐に会うかもしれない。幾多の傷を受けるかもしれない。けれど、その傷が、庭のバラが、犬の鳴き声が、子どもの笑い声が、それがそこに在り続けた証となってゆく。
2人はどんな家に住むのだろう。
そして、どんな家を築くのだろう。
きっと、とても“自然な家”であるに違いない。