11.22.20:30
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05.22.00:27
あたたかい雪①
私は、私の夢を見る
彼と一緒に地下鉄に乗っていたときだ。
親子の写真とともに、「パパは君で夢を見る」というキャッチコピーの広告が目についた。
犀川はそれを見て、萌絵にこう言った。
「子供は、あんなパパが大嫌いだ」
萌絵も同感だった。
子供で夢を見る親は、もう「親」という生き物だ。
それは人間の生を放棄している。
ついつい人は、そうした装飾に包まれた安楽を望む。
何故か?
それが楽だからだ。
子供に夢を託した方が、自分が夢を実現するよりも楽だからだ。
少なくとも、そんな男だけには関わりたくない、と萌絵は思う。
彼女の父親も母親も、娘に何も託さなかった。
彼らは自分たちの人生を生き、その人生の中で娘を愛したのだ。
私の夢を見るのは、私だ。
―森博嗣『有限と微笑のパン』より―
白の章への構想彼と一緒に地下鉄に乗っていたときだ。
親子の写真とともに、「パパは君で夢を見る」というキャッチコピーの広告が目についた。
犀川はそれを見て、萌絵にこう言った。
「子供は、あんなパパが大嫌いだ」
萌絵も同感だった。
子供で夢を見る親は、もう「親」という生き物だ。
それは人間の生を放棄している。
ついつい人は、そうした装飾に包まれた安楽を望む。
何故か?
それが楽だからだ。
子供に夢を託した方が、自分が夢を実現するよりも楽だからだ。
少なくとも、そんな男だけには関わりたくない、と萌絵は思う。
彼女の父親も母親も、娘に何も託さなかった。
彼らは自分たちの人生を生き、その人生の中で娘を愛したのだ。
私の夢を見るのは、私だ。
―森博嗣『有限と微笑のパン』より―
でも、と僕は思う。
子どもは自分で環境を選べない。自分で住む場所を決められない。自分のお金で病気を治せない。
そんな「子ども時代」と呼ばれる過渡期の中で、親が子どもに果たす役割は計り知れない。
最低限、人生に干渉せざるを得ない。そしてその最低限の干渉は、やはり子どもの心を大きく揺さぶる。
「いつか僕らがグレーになる頃に」の最終章・白の章は、小学5年生の冬、彼らが初めて出会った日から始まります。親に縛られ自由を求める美幸と、自分たちの夢を生き生きと追いかける3人。そんな彼らに美幸は感化されます。しかし一方で、美幸の母は、「子どもを守れるのは親しかいない」と言い放ちます。
「子ども」の気持ちと、「親」の気持ち。
マル・バツなんて付けられない2つの気持ち。
だからグレーだったのだと、今は思う。 最終章は僕らのために
描くか…描かないか…。
随分迷ったけど、やっぱり描くことにした。
自分の人生を振り返ると、いつも、遠回りを選んでしまうことが多い。
それでも、踏み出せば、後悔はない。
あとで後悔することもあるけれど、そのときの決断に後悔は微塵もない。
これは、
あの頃の僕らの物語だ。
描こう。
僕らのために。
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