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The Ropes~平成の常盤荘~代表三輪亮介のブログです。 ここでは日常で切り取った一枚の写真をもとに 日々の想いなどをつづりたいと思います。
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  • 04/21/04:27

03.29.05:40

だって、本当のことだから。

素直に、ドリカムみたいに、

うれしい!たのしい!大好き!と言える。


だって、本当のことだから。


親友が、僕の誕生日をお祝いしたいとのことで、20時に柏駅で待ち合わせをした。
「お店も予約してあるから!」と彼女ばりのハリきりようだった。とはいえ、例年のことなのでいつも通り、来月誕生日を迎える彼のプレゼントを探しながら、高島屋やSOGOで約束の時間までを過ごした。結局、彼へのプレゼントは決まらなかったのだけど・・・(笑)。

2分前に着くと、すでに彼はスタンばっていた。年を追うごとに、お互い集合時間より、早く着くようになる。「こっちこっち」と彼の向かった先は、「サンサン通り」だった。「サンサン通りで飲むようになると、いよいよおっさんだよな」なんて笑いながら、ストリートミュージシャン達の、交錯する歌の中をくぐっていく。

個室を想像していたのだけど、意外にも彼の指先は大衆居酒屋を指した。
「魚が食べたくてさぁ」
ここで違和感を感じるべきだった。

店を開けると、僕の驚きは階段を登るように上がっていくことになる。
まず、店員さんの顔を見て、あれ?
「三輪さん!!」
児童センターミュージカルに参加している子どものお父さんが店長さんのお店であった!(1段目)驚きながら挨拶を交わした後、二階に上がっていく彼の背中を慌ただしく追った。
二階に上がると、目の前に広がったのは、土曜の夜に賑わう人、人、人。団体客用のテーブルの他に、どう見ても2人用の空席は見当たらない。おかしい!(2段目)
うろたえる様子もなく、席と席の狭い通りをぐんぐんと迷いなく進む彼を目で追うと、その長テーブルに見覚えのある顔が・・・。小学校時代の友だちの見慣れた顔が並んでいる!そういうことか!!(3段目)
それにしても人数が多い!!視線を横にスライドしていくと、ホテルオークラ東京ベイで働いている多忙なアイツがいる!!旭市在住のアイツがいる!しかも奥さんと!いつものメンバーの女子!!・・の旦那がいる!!(彼も小学校からの友だち)(4段目)
んん!!!??先生(当時の担任)がいる!!(5段目)

3段目までだったら、ふつーに、「なんだよー!!サプライズ!?なんだよー!!!ふざけんなよぉ!!」と大声出して笑って席に着けたと思うんだけど、5段目までいくと、逆にリアクションができない。絶句。ああ、ドッキリやられている人のアレ(え?何?何が起きてるの?)って、コレか・・・。なんて思いながら、笑い声の中、決まり悪そうにセンター席についた。

しばらくすると、暗転。誕生日ケーキの登場!そこは、よくあるシチュエーションかと思いきや、ケーキをよくよく見ると、明らかにここのお店のケーキではないし、なんだったらこういう居酒屋でケーキサービスは考えづらい。他店からの持ち込みであった!!(6段目)
続けざまに今度は、「目つぶって!」(これは本当に何が起こるか怖い)
目を開くと、対面する人の顔が見えないくらい大きなプレゼント!!(7段目)
デカイ・・・。マズイ。形からするに、これはぬいぐるみではないだろーか。マズイ!非常にマズイ!!こんなデカイぬいぐるみ、正直どこに置けって言うんだ!置けねーよ!ってか、なんでぬいぐるみなんだよ!!ギャグか!?狙ってんのか!?ってことは、これは逆に俺の反応が試されてるってことか!?ハードルたけーよ!!ってか、なんでぬいぐるみなんだよ(2回目)!!
「開けて開けて!」
やべえよ、喜ぶ顔できねーよ!耳あるよー!しかも本格派だよー!!
恐る恐る包装を剥がしていくと(実はこの包装も手作り)、現れたのは、色とりどりの花や蝶が舞うステンドガラスの照明だった(外国からの完全受注販売らしい)!!(8段目)


すべては4ヶ月前から仕込まれていたらしい。
正直、いろんな驚きを超えて、もはや、申し訳なさとか感謝とか超えて、楽しくなってしまった!!この感覚は、小学生が友人を自宅に呼んでの誕生日パーティーだ!!やべぇ、楽しい!!

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若い頃のように「いつも一緒にいるから」来るのではなく、そこには1人1人の「行く」という意志が存在する。

人数ってバカにならない。
数は、そのまま絶対値として様々なパワーを上げる。
100人のデモ行進より、10000人の行進の方が迫力がある。
いつもの5,6人ではなく、住んでいる場所も離れ、仕事も忙しく、既婚者が多くなってきた30代以上が、10人集まることだけでもとてつもなく労力がかかることだ。さらに先生まで駆けつけてくださるなんて。若い頃のように「いつも一緒にいるから」来るのではなく、そこには1人1人の「行く」という意志が存在する。それが10集まった「意志」というのは、若い頃のそれよりも、遥かにその場に臨む姿勢もパワーも違う。圧倒的だ。
それだけで、もう十二分なプレゼントのような気がした。

店長さんのご厚意に甘えさせてもらい、閉店まで騒ぎ通した後、当然のように二次会が開かれた。今日の計画の裏話や、うるさいだけのバカ話は2時過ぎまで続いた。5時から仕事だという男は、酒を一滴も飲まず、プレゼントを僕の家まで車で運んでくれるという。マジか!!(9段目)


笑い声の後ろに、きっと色々な気持ちが交錯している。
乗り越えようとする人、挑戦し続ける人、不安な人、もやもやしている人、今を生きている人、これでいいのかわからない人。そんなの知っている。
同じ教室で、先生の話に耳を傾けていた12歳が、32歳になった。あの頃だって、笑い声の後ろに、きっと色々な気持ちがあったにちがいないけど、それはあくまで個人1人1人の気持ちだった。
今は違う。気持ちを何度もぶつけて、受け止めて、投げ出して、拾って、
またぶつけ合ってきた。
すれ違い、また会う。会っては、すれ違う。そして、また、会う。

他人のことなんて、完全に理解することはできない。
自分のことさえ、完全にはわからないのだから。
そんなの知っている。

だけど、言わずにはいられない。

「大丈夫。わかっているから。」

なんの根拠もない言葉が、不思議と僕らの間では大きな説得力を持つ。
そして、それを口に出すことはない。すべては胸のつぶやきだ。


友情ってむず痒い。嘘くさい。そう感じている人もいるし、僕だってそう思った時期がある。

本物が欲しい。本当のことが知りたい。

人の気持ちに触れることだ。触れるために、自分を触らせることだ。
触らせるために、なるべく裸でいることだ。
あたたかいだろう。恥ずかしいだろう。痛いだろう。
わかるだろう。


誕生日にみんなにこうやって祝ってもらったのなんて、いつぶりだろう。
素直に、ドリカムみたいに、うれしい!たのしい!大好き!と言える。
だって、本当のことだから。
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03.10.05:24

3月15日(日)ミュージカル『ほしに、ねがいを。~ルーシィと時の魔法~』上演

2015年3月15日(日)公演
第14回柏市児童センターミュージカル
『ほしに、ねがいを。~ルーシィと時の魔法~』




柏っていい街だよ。ここで生まれてよかった、住んでよかったと感じられる街になったらいいなぁ~の想いから始まった柏市児童センターミュージカル。台本・演出・音楽・衣装・美術など、すべてボランティアが力を合わせて作り上げた作品です。演じるのは柏の子どもたち!
暖かい人の輪から、小さな幸せと喜びを込めて贈る「児童センターミュージカル」第14作!私、三輪はポスターを描かせていただきましたが、白黒で申し訳ないです!!11月公演にはカラーでお知らせしたいと思います!お時間ある方はぜひ遊びにお越しください。

日時:2014年3月15日(日)
開場:午後1時30分
開演:午後2時00分
入場無料
場所:柏市豊四季台近隣センター(体育館)
住所:千葉県柏市かやの町2-65
行き方:柏駅西口より,豊四季台団地循環バス(柏01)で「集会所」下車,徒歩10分
※お車でのお越しもOKです



大きな地図で見る


―物語の概要―

2015年。14年目の本作は、じどせんミュージカル史上、もっとも多くのOG・OBが再集結してくれました。出会った当時は、幼くあどけなかった彼らが、今やすてきな若者になって、陰日なたなく後輩たちを指導し、舞台を創ってくれました。ミュージカルとしてはつたない舞台かもしれません。ですがここには、人がつながり、共に子どもたちを育てていく温かさが確かにあります。本作の主人公ルーシィは、「出会い」から逃げがちな女の子。彼女の成長を通し、今までのすべての出会いへの感謝と、その温かさが伝わりましたら幸いです。そしてこれからも、子どもたちを包む「人の輪」が広がっていくことを願って。ミュージカルはお客様も出演者。時々はファインダーから顔をあげて、舞台を楽しんでください♪さあ、幕を開けましょう!

03.10.04:54

いつか、つながることは「知っている」



2015年2月14日(日)は、旧友の結婚式だった。
彼女とは小学校5年生から、20年来の友だちだ。
特別な友だちだ。

帰国子女だった彼女だったけど、幼い頃の僕は、彼女の語学の才能にはあまり興味関心はなかったように思う。ただ、「明るい(うるさい)女子」という印象。その持ち前の明るさで、転校生だった彼女は実にたくさんの友だちを作っていった。もちろん、その裏には、彼女なりの悩みや、苦労も多分にあったと思うのだけれど、それを感じさせない強さが、彼女にはあった。
いつの間にか、男女グループの中に僕も彼女もいて、僕のコアの時間の中には、常に彼女の存在があった。

中学校に上がると、小学校の仲間との関係も薄くなっていった一方、彼女だけはクラスも同じ、席も隣になることが多く、実際、中学校時代のあまり知られていない僕の横顔を、一番多く見ていたのは彼女に違いない。


やさしい人といると、やさしくなるように、
彼女といると、他人のことを自分のことのように思える自分になれる。


高校に上がると、彼女との距離は一気に縮まっていく。
同窓会をきっかけに、小学校のクラスの仲間が頻繁に集まるようになったことに加えて、彼女が僕の家の近所に引っ越してきたこともあり、夜な夜な会っては、互いの恋愛相談をしていたような気がする。
彼女の一番の魅力は、「人のことを、自分のことのように感じることのできる心」だ。
僕の恋愛は、とにかく一途で、不変の片想いだった。他人からすれば、融通の利かない単なる初恋の退屈話だったに違いない。それでも、彼女は僕の進展のない恋愛話を、自分のことのように聞いてくれた。それに呼応するように、僕も彼女の恋愛話に耳を傾けた。
やさしい人といると、やさしくなるように、
彼女といると、他人のことを自分のことのように思える自分になれる。

僕らのグループは思い出を重ねた。
勝浦への旅行、花火、成人式、祭り・・・
特別なイベントを並べるよりも、圧倒的に日常で会うことの方が多かった。
それは多くの人が想像するような、小学校時代の友達との関係では決してない。
思い出話を重ねるのではなく、新しい思い出をどんどん作る、現在進行形の友だちだ。泣きじゃくるようなケンカも、夜通し話し合いをしたことも、両手じゃ収まらない。それでも、盤石な歴史に裏付けられていた僕らの友情が切れることはなかった。

そこに最初に距離を置いたのが、僕だった。
2005年の夏だ。
大学での出会いと経験が、僕の価値観を激しく変えていった。
「衝突」というより、「噛み合わない」といったことが多くなった。
冷静な僕にとって、直情的な彼女が、いつもその筆頭に躍り出た。
「今の僕の居場所はここじゃない」そんなふうに思えた。
大学での経験は、仲間のために魂を燃やす時間だった。互いに厳しさを与えながら、絶妙の思いやりを持って、走る。そこには短い時間で築き上げる「信頼」が必要だった。
それは、長い時間が自然と築き上げていた「信頼」の種類とは違うものだったように思う。


いつか、つながることは「知っている」


結局、これが解決した明確な時期はない。
20代後半の成長、「寛容」が、僕らの関係をアップデートしてくれたように感じる。
小学校の延長で関係を保てたのは、高校までで、それ以降の僕らの人格形成は非常に多種多様だ。30代まで関係性を保てるグループは希少だ。

曲がりなりに、ぶつかりながら、もがきながら。
うん、そう。
がむしゃらに、泣きながら、もう嫌だって思いながら。
それでも一緒にいる意味ってあるのかなって、何回も思いながら。
自分の居場所を探しながら。
旅に出ては、戻り。
不恰好に重なり合って。
格好悪い自分に嫌気を差しながら。
何度も夜の帰り道を歩いて。
何度も集まり。
泣いて、笑って。
今も、泣いて、笑って。

僕らは、今の僕らの形になった。

分かり合えない時間があってもいい。むしろ、分かり合えないことの方が多い。
つながらない時間があってもいい。それぞれの旅をすればいい。
いつか、つながることは「知っている」。
それで十分だ。

彼女は、結婚をしてフランスに行く。
ドアを出て3分の距離じゃない。
淋しさとか、切なさとか、心配とか、いろいろあるけど。
いつか、つながることは「知っている」。

2015年2月14日(土)。
新郎の家族と会うと、いろんなことが吹き飛んでいった。
彼女がフランスでたくさん笑っている姿が想像できた。きっと大変なこともある。
でも、持ち前の明るい(うるさい)性格で、たくさんの人たちと笑い合うに違いない。そして、彼がいれば大丈夫。そんな確信めいたものがあった。

本当に、おめでとう。
あらゆる意味で、特別な友だちへ。

03.27.23:55

後悔は愛から生まれている



後悔は愛から生まれている

親父の定年退職祝いで、草津に家族旅行に行った。

後輩の話や、少し年上の人の話に耳を傾けることは多いけど、自分の倍の年齢に、想像を拡げることは通常多くない。

妙なことに、最近僕が描き上げたマンガの主人公は57歳。
先日、試写会で観た『リベンジ・マッチ』に出てくるロバート・デニーロは70歳。シルベスター・スタローンは67歳。そして、僕の親父は60歳を迎え、定年退職を迎えた。
なんの因果か、最近の僕は、そんな途方もない未来のことに想像を拡げている。

60歳を迎えたとき、自分は果たして何を想うのか。

『リベンジ・マッチ』では、かつて宿敵同士だったボクサーが、30年後に遺恨を晴らそうという物語で、過去に対する「後悔」に、向き合うべき「タイミング」が訪れる。
僕の描いたマンガでは、かつて共に芸術家を志した2人が、1人の女性を巡って離縁し、30年後に1人生き残った主人公が、親友の追悼展に足を運び、過去の「後悔」と「真実」に向き合って行くという物語だ。

「後悔のない生き方なんてできないけど、後悔のないように生きようって思う」

そんな21歳の頃書いた自分の言葉が、ノートに残っている。自分の選択と決断の未熟さを認めながらも、未熟でも、その選択と決断でより良い未来を開いていこうという気持ちが尊いのだ、ということを詠ったものだ。

けど、今の僕が抱く「後悔」のイメージは、一重に「愛」という言葉に込められる。

「愛しているから後悔しているのだ。後悔は愛から生まれている」

他人から見ればどうしようもなく小さな事でも、本人からすれば、身体の一部を失ったかのような喪失感を伴うものがある。それは、紛れもなく、愛しているからだ。
人を、物を、場所を、あるいは、時間を。
向き合えなくて目を背けた時期もある。忘れようと願ったこともある。もしかしたら本当に忘れていたのかもしれない。それでも、人生には、向き合うべきタイミングが訪れる。
そんな気がしてならない。
それはいつなのだろうか。

3時に目が覚めて、小腹が減ったので、1人、近くのセブンイレブンでカップヌードルを食べていると、大学生の男女グループが各々寝巻のまま入ってきた。卒業旅行だろうか。今夜告白を予定していた子は、誤算だったろう。眠気よりも興奮が勝って、全員眠れなかったみたいだ。
寒さに、一層白く立ちこめる湯畑の周りを、意味もなくみんなで周回していく。
それぞれの想いが行き場をなくして、湯気に混じって浮いて行くようだった。

彼か彼女の未来に、硫黄の香りが、今夜をどうしようもなく想起させる日が来るかもしれない。

と、飲み干したカップをゴミ箱に捨てて、宿に帰った。

03.23.04:03

太陽のような人



今日は、チョーお世話になった大学時代の友人の結婚式だった。
僕は、サークルも学科も同じだったので、彼女と共有した時間を他の人と比べれば、異性にしては、多少長い方に入る。

彼女の中学校時代の恩師は、彼女のことをこう表現した。

「太陽のような生徒」

その言葉は、決して言い過ぎじゃない。
彼女を形容するのに、最も適した言葉だ。

大学に入学した頃、現役生より3つ年上だった僕は、とてもじゃないけど、みんなと仲良くなれる自信がなかった。なんだったら、仲良くなろうとも思っていなかったかもしれない。
だから、サークルの新歓が落ち着いても、同年代の先輩と話している方がしっくりときていたし、実際のところ楽しかった。でも、一度サークルから離れて、教室のドアをくぐると、広い講堂を埋め尽くす年下の群れの中で、途端に僕は孤独になった。
そんな僕に声をかけてくれたのが、彼女とその友だちだった。

僕がひとりで教室のドアをくぐると、
いつも、「ミワちゃん、ミワちゃん!」と、
こっちが恥ずかしくなるぐらい大きな声で、一生懸命手を振ってくれていた。
すぐには気づかないふりをして、軽く手を挙げて応えると、彼女達の端にのそりと座った。
こうして、彼女達が取って置いてくれた席が、僕の最初の居場所になった。
そのうち、彼女達の周りの友だちとも話す機会が増えて行った。彼女の座っている長机が、そのままみんなと僕の架け橋になってくれたのだ。

1,2年生の頃の僕は、現役生たちのひたむきさがまぶしくて、かわいくて仕方がなかった。それは逆に、あらゆる局面で、甘えていたと言ってもいい。
でも、学年が上がるにつれて、自分も本気で向き合いたいと願うようになった。
年上だから俯瞰しているのではなく、23歳の本気の、必死の自分で。
それがサークルの3年目であり、彼女と共に過ごした1年間だ。

本気になって良かったと思えることも有り余るほどあったけど、
逆に現役生との距離感を大きく感じるようにもなった。
それは僕の方じゃなくて、むしろ、相手の方が一歩二歩と間隔を空けたような感じがだった。
対等だと思っていた僕のことを、初めて年上だと体感した結果だ。そして、その後ずさりは、一種、恐れにも似たものだった。

でも、彼女だけは、本当に彼女だけは、全然変わらなかった。
もちろん、見方の変化はあったとは思うけど、

1年生の頃、僕が教室のドアをくぐると響いた、あの大きな声で、
「ミワちゃん、ミワちゃん!」
って大きく手を振っていた。

気がつけば、彼女はすっかり女の子達の中心的存在になっていた。それはカリスマ性とかそんなんじゃなくて、本当に、日向に人が集まるみたいに、自然な中心だった。
みんなが彼女に照らされて、ハッピーになるのだ。

最近、子どもを見ていて、思うことがある。
外見が良い、歌が上手い、足が速い、頭が良い、乗り物が好き、食べるのが好き。
「個性」という言葉を、他者との能力の比較ではなく、自己ステータスの中で、(高低ではなく)最も際立つものと定義するなら、それは多種多様に存在し、どれも魅力的なのだけれど、
私的に、実感で言えば、
最も価値があるのは、
「人をハッピーにする力」だと思う。

その人と一緒にいるだけで、ハッピーな気分になる。
しかもそれは先天的な、本当に神様に与えられたものみたいな、才能のようなもの。
彼女にはそれがある。そして、それが今も失われていないということに、価値がある。

僕は、人をハッピーにしたいって努力してきたつもりだけど、
天然の人には敵わないなって最近思う。
もちろん、彼女が何も考えずそれをやっているわけではないけど、
思考、決断、実行、結果の、どのフェーズを見ても、スゴい!!

とにかく、スゴい!!!!!!

一方で、太陽の人は、自分が悩んだり辛くなったとき、誰に照らしてもらえるのだろうとも思っていた。たぶん、大学の頃は、僕は彼女に助けられてばかりで、あまり彼女の力になってあげられなかったなぁって思う。それは、卒業して以来、ずっと抱えていた、ちょっとした後悔だった。

だから、今日の結婚式は、僕にとって格別の喜びだった。

心配していた天気は、どこかへ行って、
温かい太陽の光に、たくさんの人が集まった。あの頃よりも、ずっとたくさん。

A HAPPY HAPPY WEDDING
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