11.22.15:03
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03.23.04:03
太陽のような人
今日は、チョーお世話になった大学時代の友人の結婚式だった。
僕は、サークルも学科も同じだったので、彼女と共有した時間を他の人と比べれば、異性にしては、多少長い方に入る。
彼女の中学校時代の恩師は、彼女のことをこう表現した。
「太陽のような生徒」
その言葉は、決して言い過ぎじゃない。
彼女を形容するのに、最も適した言葉だ。
大学に入学した頃、現役生より3つ年上だった僕は、とてもじゃないけど、みんなと仲良くなれる自信がなかった。なんだったら、仲良くなろうとも思っていなかったかもしれない。
だから、サークルの新歓が落ち着いても、同年代の先輩と話している方がしっくりときていたし、実際のところ楽しかった。でも、一度サークルから離れて、教室のドアをくぐると、広い講堂を埋め尽くす年下の群れの中で、途端に僕は孤独になった。
そんな僕に声をかけてくれたのが、彼女とその友だちだった。
僕がひとりで教室のドアをくぐると、
いつも、「ミワちゃん、ミワちゃん!」と、
こっちが恥ずかしくなるぐらい大きな声で、一生懸命手を振ってくれていた。
すぐには気づかないふりをして、軽く手を挙げて応えると、彼女達の端にのそりと座った。
こうして、彼女達が取って置いてくれた席が、僕の最初の居場所になった。
そのうち、彼女達の周りの友だちとも話す機会が増えて行った。彼女の座っている長机が、そのままみんなと僕の架け橋になってくれたのだ。
1,2年生の頃の僕は、現役生たちのひたむきさがまぶしくて、かわいくて仕方がなかった。それは逆に、あらゆる局面で、甘えていたと言ってもいい。
でも、学年が上がるにつれて、自分も本気で向き合いたいと願うようになった。
年上だから俯瞰しているのではなく、23歳の本気の、必死の自分で。
それがサークルの3年目であり、彼女と共に過ごした1年間だ。
本気になって良かったと思えることも有り余るほどあったけど、
逆に現役生との距離感を大きく感じるようにもなった。
それは僕の方じゃなくて、むしろ、相手の方が一歩二歩と間隔を空けたような感じがだった。
対等だと思っていた僕のことを、初めて年上だと体感した結果だ。そして、その後ずさりは、一種、恐れにも似たものだった。
でも、彼女だけは、本当に彼女だけは、全然変わらなかった。
もちろん、見方の変化はあったとは思うけど、
1年生の頃、僕が教室のドアをくぐると響いた、あの大きな声で、
「ミワちゃん、ミワちゃん!」
って大きく手を振っていた。
気がつけば、彼女はすっかり女の子達の中心的存在になっていた。それはカリスマ性とかそんなんじゃなくて、本当に、日向に人が集まるみたいに、自然な中心だった。
みんなが彼女に照らされて、ハッピーになるのだ。
最近、子どもを見ていて、思うことがある。
外見が良い、歌が上手い、足が速い、頭が良い、乗り物が好き、食べるのが好き。
「個性」という言葉を、他者との能力の比較ではなく、自己ステータスの中で、(高低ではなく)最も際立つものと定義するなら、それは多種多様に存在し、どれも魅力的なのだけれど、
私的に、実感で言えば、
最も価値があるのは、
「人をハッピーにする力」だと思う。
その人と一緒にいるだけで、ハッピーな気分になる。
しかもそれは先天的な、本当に神様に与えられたものみたいな、才能のようなもの。
彼女にはそれがある。そして、それが今も失われていないということに、価値がある。
僕は、人をハッピーにしたいって努力してきたつもりだけど、
天然の人には敵わないなって最近思う。
もちろん、彼女が何も考えずそれをやっているわけではないけど、
思考、決断、実行、結果の、どのフェーズを見ても、スゴい!!
とにかく、スゴい!!!!!!
一方で、太陽の人は、自分が悩んだり辛くなったとき、誰に照らしてもらえるのだろうとも思っていた。たぶん、大学の頃は、僕は彼女に助けられてばかりで、あまり彼女の力になってあげられなかったなぁって思う。それは、卒業して以来、ずっと抱えていた、ちょっとした後悔だった。
だから、今日の結婚式は、僕にとって格別の喜びだった。
心配していた天気は、どこかへ行って、
温かい太陽の光に、たくさんの人が集まった。あの頃よりも、ずっとたくさん。
A HAPPY HAPPY WEDDING
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