04.20.21:02
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02.23.04:44
そんなふうに歌ってみたいな
たくさん考えて たくさん直して
僕の歌じゃ キッチンで口ずさめない人もいるみたい
そんなふうに 歌ってみたいな
みんなが歌ってくれるように 歌えるように
02.21.05:01
3年B組に、いたいのではない。
「人とかかわる」とは、一体どういうことだろうか。
正解はない。
それぞれの定義が存在するし、自分に合った定義に人は集うだろう。
「類は友を呼ぶ」という言葉が、それを端的に表している。
「組織」は、わかりやすい形で僕らの前にある。
「野球部」は「野球をする団体」だし、「眼鏡屋」は「メガネを売る団体」だ。
一方、目的の見えづらい「組織」というものがある。
たとえば、「学校のクラス」は、「ただ同じ教室になっただけの団体」だ。
体育で野球をすることもあるけど、野球をする団体ではない。
文化祭で演劇をすることもあるけど、誰一人、演劇をするために入ってきた者はいない。
しかし、それは時折、他に類を見ない、
とても強い「絆」で結ばれることがある。
その「絆」が一生涯続くことも珍しくないだろう。
なんの共通項も持たない者たちが、果たして何を通して絆を深めるのか。
それは、バットで結ばれたのではない。
ましては、売り上げ目標を達成した一体感で結ばれたわけでもない。
彼ら彼女たちが手を繋いだ場所の名前は、
一つ一つの体験の中でさらけ出した「本当の自分自身」と、
それを受け入れて、
本当の自分自身でぶつかってきてくれた相手への、
「絶対的な信頼」と「圧倒的な感謝」だ。
その場所を起点とした活動は、最高に楽しい営みとなるはずだ。
コーヒーを沸かして、それぞれ持ち寄ったマグカップでそれを片手に談笑する。
みんなでコンビニに夕飯を買いに行く。
カップラーメンをすする。
絵を描いてみる。
掃除をする。
本を紹介し合う。
年に一度、旅行に行く。
特別ではないものが、特別になる。
憂鬱な強風の1日が、みんなといると特別な1ページになる。
僕らに名前はない。
「友だち」「職場の仲間」「サークル」
世間一般に流通している言葉では、包括できないものだ。
「もはや家族みたい」と、大学生1年生の子が言った。
短絡的に選んだのではない。もっとも近しい表現を彼女なりに選んだのだ。
「特別な場所」だと、周囲に認めてもらう必要はまったくない。
「特別な場所」だと、僕らが自分自身で思えることが大切なのだ。
3年B組に、いたいのではない。
このメンバーと、いたい。
なぜ、このメンバーなのか。
選んだわけでもない。
狙ったわけでもない。
ただ、自分のいる場所で出会う人たちと仲良くなりたかっただけだ。
たくさんのいいところを発見して、たくさんのダメなところを言い合った。
痛いなぁ。辛いなぁ。ムカつくなぁ。
こんなに「人とかかわる」って面倒くさいのか。
正解はない。
「本当の自分を認めること」だ。
いつでも、そこからだった。
02.19.05:27
「想いは届いただろうか」
「想いは届いただろうか」
いつもそればかり思っている。
他に思うことはない。
野田市岩名中学校で毎年行われている、「社会人に学ぶ(中1対象)」の授業に、講師として呼ばれるようになって数年が経つ。
ありがたいとことに、毎年、丁寧に生徒一人一人の「感想文」を添えてお礼状を送ってくださる。
僕にとってその「感想文」が、授業の出来がどうだったかの「答え合わせ」の役割を担っている。語られている言葉が定型文の域を出なければ、残念ながら僕の授業はその子の中に残らなかったのだろう。逆に、語る言葉は持たなくても、その筆跡や字足らずの中に、想いが溢れていることもある。
もっとも多い感想文の形は、僕が投げた言葉の中で、特に印象に残ったものを引用しているものだ。その言葉を聞いた瞬間から、日々の生活に変化があったというものだ。そこには様々な「残響」が見て取れる。
そして、僕は、ちょっと嬉しい音で、手紙をしまう。
想いが届いた音だ。
当日の教室を目の前に再現してみる。
投げかける言葉が加速していく。熱を帯びていく。
用意していた言葉を音読しても、伝わらない。
人が話す言葉には血が通っていなくてはならない。
なぜなら、活字を読むだけでは手に入れられない「何か」がそこに在るからだ。
彼ら彼女たちの一人も、僕から一時も目を逸らさない。
「届け」「響け」と幾つもボールを投げる。
多すぎても、少なすぎてもいけない。
コーヒーに注ぐミルクみたいに、見合った量を。
響き合って、混ざり合う。
空に描かれた雲を見上げながら
僕は、もっと嬉しい音で、自転車を漕ぐ。