11.25.03:06
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02.19.05:27
「想いは届いただろうか」
「想いは届いただろうか」
いつもそればかり思っている。
他に思うことはない。
野田市岩名中学校で毎年行われている、「社会人に学ぶ(中1対象)」の授業に、講師として呼ばれるようになって数年が経つ。
ありがたいとことに、毎年、丁寧に生徒一人一人の「感想文」を添えてお礼状を送ってくださる。
僕にとってその「感想文」が、授業の出来がどうだったかの「答え合わせ」の役割を担っている。語られている言葉が定型文の域を出なければ、残念ながら僕の授業はその子の中に残らなかったのだろう。逆に、語る言葉は持たなくても、その筆跡や字足らずの中に、想いが溢れていることもある。
もっとも多い感想文の形は、僕が投げた言葉の中で、特に印象に残ったものを引用しているものだ。その言葉を聞いた瞬間から、日々の生活に変化があったというものだ。そこには様々な「残響」が見て取れる。
そして、僕は、ちょっと嬉しい音で、手紙をしまう。
想いが届いた音だ。
当日の教室を目の前に再現してみる。
投げかける言葉が加速していく。熱を帯びていく。
用意していた言葉を音読しても、伝わらない。
人が話す言葉には血が通っていなくてはならない。
なぜなら、活字を読むだけでは手に入れられない「何か」がそこに在るからだ。
彼ら彼女たちの一人も、僕から一時も目を逸らさない。
「届け」「響け」と幾つもボールを投げる。
多すぎても、少なすぎてもいけない。
コーヒーに注ぐミルクみたいに、見合った量を。
響き合って、混ざり合う。
空に描かれた雲を見上げながら
僕は、もっと嬉しい音で、自転車を漕ぐ。
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