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The Ropes~平成の常盤荘~代表三輪亮介のブログです。 ここでは日常で切り取った一枚の写真をもとに 日々の想いなどをつづりたいと思います。
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  • 03/29/21:23

08.16.18:18

30歳の答え合わせ

a0752f8c.jpeg

ずいぶん長いあいだ、文字を書かなかった。
いろんなことがあったし、いろいろな人に会ったのだけれど、
そこで感じたものを誰かに伝えるには、共感が得難いものばかりだった。
 
30歳になって変わったことを、書こう。
 
時を超えて、同じ場所に辿り着く人がいるということ。
 
僕はよく直感で動いているように見られがちだけど、どちらかと言えば、論理的で合理的な方で、表向きは最大公約数の評価を求めて生きてきた気がする。
先天的に持ち得なかったものは、努力で補ってきたし、コミュニティーの中での評価項目に関してはかなり意欲的に取り組んできた。
しかし、一方で、局地的にマイノリティーなものが、大局的に見ればメジャーなものになり得るということも、かなり幼い頃から理解していた。それは普遍的な美感と、流動的な美感に対してもそうだ。
それらの見通しを持って、最大公約数の評価を求めたかというと、そうではない。
ある「景色」が僕にはぼんやり見えていて、その景色へ近づくための決断は、必ずしも、最大公約数の評価とイコールで結ばれるものではなかった。そしてその選択と決断は、論理的で合理的なものとは程遠い、かなり直感力に依拠したものだった。
なりたい大人像というものが、僕にはいつからか「景色」のようにぼんやりと見えていて、それは人生設計とはまた違っていて、口語的に言えば、主に人間の所作に表出する、「存在感」や「オーラ」と呼ばれるものに近しかったように思う。

このように、今の自分は、およそ10歳のときから、とても意識的に意図的にデザインしてきた20年の結果だと言える。表向きは他人からの相対評価を気にしつつも、裏では自分自身の絶対評価でたどり着いた「眼」を持つことになったのだ。
30歳になって、そのぼんやりとした景色は、僕の「眼」の中で確かな輪郭を持ち始めた。
そして、心のどこかで僕は「やっぱりこの景色だった」という妙な納得をしてしまっている。それは、ずいぶん前から感じている「予感」によるものだ。
自分の意志で決めたことも、努力で積み上げてきたものも、もしかしたら、すべては前から決まっていたのではないか。強い何かに引っ張られるように。そんな気さえしてくる。
 
もちろん、その「景色」の価値は、自分自身にしかわからないもので、他人にわかってもらわなくたっていいと思っていた。下手をしたら、その「景色」を、見ることもできない人だっているだろう。
そう、2つ必要なのだ。
景色を見ることのできる「眼」と、その景色を美しいと感じることのできる「心」。
だから、この先も、これを誰かと共有することはないと思っていた。
 
しかし、時を超えて同じ場所にたどり着いた奴がいた。
 
そいつは、僕とは正反対の道を歩いてきた。最大公約数の評価なんか全く気にすることもなく、道行く中で遭遇するほとんどのことを、自分を起点に考え、選択と決断をすべて「直感」に頼ってきた奴だ。
演繹的に見れば、そのプロセスは非論理的で非合理的なものばかりなのに、幾つかの結論から帰納的に見れば、それは一本のロジックが通っていることがわかる。しかし、そのロジックは世間一般に流通しているものではなく、あくまで一個人の経験則から来る、一個人の私的ロジックとしか言い様がない。
それを支えているのは、直感による選択と決断の速さが生み出した、膨大な経験値に他ならない。同年代と比較すると、かなり多くの実験データをそいつは保有しているだろう。
その膨大な失敗と成功の積み重ねが、その直感力をより鋭利に研ぎ澄まし、また、精度を上げたその力に対する信頼を、ますます確かなものにしていった。
そこで育まれた能力の一つが、物事を判別する「眼」だろう。
そして、その「眼」によってはじき出された多くの答えの傾向から、経験的にそいつは、何が「美しい」かを知ったのだ。いや、正確に言うならば、予感していたものに確信を得たと言った方がいいだろうか。
 
30歳になったとき、そいつはその「景色」を見ることのできる「眼」を持っていた。
そして、その景色を2人とも「きれいだ」と思ったのだ。
 
あのとき僕らは、確かに反対方向に歩いて行った。
別々の道を歩いたはずだ。あまりにも違うものを見てきたし、触れてきたはずだ。
感じたものさえ違かったろう。それは順番であり、種類であり、大きさであり、そのときそのときの答えだった。でも、すべてが配合されて出来上がったものは、信じがたいことだが、限りなく同質に近いものだった。
たどり着いた場所は、同じ山の、同じ山頂だった。
僕らは、「きれいだ」と、ほぼ同時に呟いたのだ。
 
そして、僕らは滔々とその理由を話し始めた。
互いが見てきた景色や、触れてきたもの、出会いと別れ…。
 
このように、
 
僕の30歳は、ひとつの答え合わせから始まっている。
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